新約聖書
「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」
(1テモテ1:15)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.795 2015年6月21日

「止むに止まれぬ救い主の情熱」

おはようございます、高原剛一郎です!

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 さて、蒸し暑い日が続くと、私は無性にカキ氷が食べたくなります。カキ氷を食べると少年時代を思い出して、なんだか懐かしくなりますね。ところで、カキ氷のシロップには、イチゴやレモンやメロンがありますが、実は、どれも同じ味なのだそうです。違うのは、着いてる色だけなんですね。味は同じでも、赤だとイチゴ味、黄色だとレモン味に思えてくるのは、思い込みによって脳が騙されてるからだというのです。
 実は、人間の持ってる五感っていうのは、簡単に欺かれるものなんですね。また、この世界には、実在はしていても人間の五感ではキャッチできないものがたくさんあるんです。放射能も、超音波も、人間の感覚では拾うことはできないものです。そして、この天地万物をお造りになった神も同じなのです。神は霊的な存在なので、人が目で見たり、耳で聞いたり、手で触れたりすることはできません。しかし、この見えない神が、人としてこの世界に来て下さいました。その方が、イエス・キリストなのです。
 聖書は、こう言っています。

「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」

 今日はここから、3つのポイントでお話いたしましょう。

キリスト・イエスとはどのような方か

 第一に、キリストは罪人を救うために、神のあり方を捨ててこの世に人間として生まれて下さった、ということです。万物の創造主が人間になるというのは、あなたがナメクジになるより、遥かに犠牲的なことだと思います。なぜなら、作者が作品の姿に身をやつすことであるからです。ところが、キリストはそんな大きな隔たりをものともせずにこの世に来て下さった、というのです。
 ある小学校で、何をやらしても平均点の少年がいました。まあ、先生としてはあまり印象に残らないタイプですね。だいたい、記憶に残るのは極端に成績がいいか、極端に成績が悪いか、何か目立つものを持ってる子です。しかしこの少年、コーちゃんは、とにかく平均的で、おとなしくて卒がなく、いてるのかいてないのか気づきにくい少年、今まで叱ったことなど一度もないような少年なんです。あるとき廊下で、このコーちゃんが隣のクラスの先生にこっぴどく怒られているのを担任の先生が見つけました。そばに行って、この子が何かしたんでしょうか、と叱ってる先生に聞くと、どうも、他の子のシャツをびりびりに破き、引っかき傷を負わせたって言うんですね。担任の先生はとても信じられませんでしたが、とにかくその先生に謝り、その子の家にも謝りに行くということを約束して、教室に戻ってみたんです。すると、10人くらいの子供が興奮状態なんですね。「あいつが悪いんや、コーちゃんは悪ない!」と、口々に言うのです。ふと見ると、みんなのそばで女の子がしくしく泣いているではありませんか。みんなを落ち着かせて話を聞きました。

幼い子の心にあった熱い思い

 実は、その泣いている女の子には、小さなあざがあるのですが、その子が廊下を歩いていると、引っかき傷の子達2,3人が「ワー、こいつ、こんなところにアザがある!」と囃し立てたというのです。それを聞いた瞬間に、コーちゃんが飛び出して、あんな結果になったというのです。だからコーちゃんは悪くない、ということなんですね。まあ、それにしてもいきなり飛び掛るというのはやはり良くないことなので、コーちゃんにもじっくり話を聞いてみると、実は、コーちゃんのお母さんにも、同じところに小さなあざがあったらしいのです。その女の子がいじめられているのを見たとき、お母さんがダブって見えたんですね。その瞬間、その女の子はもはやただのクラスメートではなくなったのです。自分の一番大切な人に似せられた人を侮辱するのは、自分の一番大切な人を侮辱するのと同じだ、と思い立ったのでしょう。
 私はこの話を読んだとき、キリストがこの世に来られたときの、やむにやまれぬお気持ちが、イメージとして湧いてきました。人間はすべて、一人残らず、まことの神様のかたちに似せて造られたものたちです。神の似姿をもって創造された最高傑作なのです。この、神のかたちに作られたものが神から離れ、自尊心を失い、他人と比較し、互いに憎みあい、死に向かっていく姿を見たとき、キリストはどうしても、黙って見過ごしにはおできにならなかったのです。

イエスの十字架と復活の意味

 第二に、キリスト・イエスが罪人を救うためにして下さったことは、全て真実である、歴史的事実である、観念上のことではなく、実際に起こった事である、ということです。いったい、キリストは私たちのために何をして下さったんでしょう。罪人を、罪の結果である死と、死後の裁きから救うために、十字架にかかって、身代わりの刑罰を引き受けて下さったのです。そして墓に葬られた後、三日目に死を突き破って復活されました。この復活のキリストと、何度も何度も会った弟子たちが、この歴史的事実を世界中に述べ伝えたのです。キリストは、あなたの罪を永久に解決した証として、復活されたのです。
 私はこのキリストの復活を、真実として信じています。それには理由があるのです。それを目撃した弟子たちの証言が、どうしても嘘だとは思えないからです。というのは、嘘をついて新しい宗教をはじめても、弟子たちに何の益にもならないからです。弟子たちは、キリストの復活を述べ伝えた結果、艱難とあざけりと殉教を余儀なくされました。彼らだって人間なんですから、いのちに危険が及ぶような行動は普通はするはずがありません。しかし、彼らはだれ一人として、復活証言を撤回することはなかったのです。これは、キリストの復活が本当にあったことの強力な証拠になると思います。

神の提供する救いを自分のものに

 第三に、このキリストによる救いは、そのまま受け入れるに値するものだ、ということです。どんなに、キリストによる救いが真実なものであったとしても、それを個人的に受け入れなければ、自分のものにはならないのです。
 以前私は、沖縄の博物館に見学に行ったことがあります。そこでは毒蛇のハブについて、特集が組まれていたのでした。ハブが恐れられているのは、なんといっても毒が強力だということです。万が一ハブにかまれたときには、一体どうすればいいんでしょう。抗毒血清を使うと、蛇の毒を中和することができるんですね。前もって、蛇の毒液をごく少量だけ馬に注入して、約半年間をかけて体内で毒の抗体を作らせ、この馬の血から血清を精製するんです。まあまさに、血によるあがないなんですね。ところで、どんなに効き目のある抗毒血清であったとしても、それをただ眺めているだけでは役に立ちません。効能の説明を聞いているだけでは意味がありません。それを体内に受け入れなければ救われないのです。キリストの福音も同じです。それを額面どおり、心に受け入れることで人は救われるのです。キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られたということばはまことであり、そのまま受け入れるに値するものです。
 どうぞ、イエス・キリストをそのまま心に受け入れてください。心からお勧めしたいと思います。

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