新約聖書
「すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された』と言われた。」
(マタイ9:2)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.806 2015年9月6日

「あなたの罪は赦された」

おはようございます、高原剛一郎です!

カット
 さて、もしあなたがお店で、いいなと思う服を見つけたとします。その時店員が、「すみません、お客さん。これは現品限りの展示品なのですけれども、それでもいいですか。」と言ったら、ちょっと残念な気分になりますね。今までたくさんの人たちに試着された服で、言ってみれば残り物の商品であるからです。せっかくの買い物であるのに、ちょっと損した気分になりますね。
 しかし、店員がこう言ったらどうでしょう。「お客様、これは一番人気の商品で、最後の一着です。」この場合、人気の服をゲットできたという幸福感で、とても得した気分になりますね。そして、前者と後者では、その服に対する愛着や扱いがまるで違ってくると思うのです。
 全く同じ服でも、残念なものとみなすのか、とてもラッキーなものを獲得できたとみるかで、その服に対する評価や態度が変わってくると思うのです。まあ、服程度のことならばたいしたことではないのですが、これが、自分自身の存在の問題になると、人生の一大事になるのです。

自分をどう評価するか

 もし、自分のことを、つまらない、くだらない、価値のないものとみるなら、つまらない人生を送ってしまう可能性が高くなるでしょう。しかし、もし自分が、自分であることに意義を見出し、意味を感じ、そこに満ち足りていくならば、その人は豊かな人生を歩む基礎を与えられた、持ったと言えるように思います。では、どのようにしたら、欠点も失敗もある自分をそのまま受け入れていくことが出来るのでしょう。

人の評価ではなく、神の評価に立つ

 第一に、人との比較による評価を捨てて、神による絶対評価に立つことです。人と比較すると必ず優劣がつきます。優劣がつくと、天狗になるか、落ち込むかのどちらかになってしまいますね。
 私は以前、依頼された講演を辞退する代わりに、ある友人を推薦して、彼に講演をしてもらったことがありました。後日、その講演会の主催者から、お礼の電話が入りました。「高原さん、素晴らしい人を紹介してくださったおかげで、大盛況になりました。高原さんに来てもらわなくて、かえって良かったです。」私は笑いながら、「ああ、そうですか。彼を推薦した甲斐がありました。」と言いましたが、心中穏やかではありませんでした。それはその友人と自分を比較して、自分を見た時、何だか自分の値打ちが下がっていたような気になって、落ち込んでしまったのですね。

あなたには意味と使命と価値がある

 人と比較すると、必ず、勝ち負けが付きます。そのような比較によるものたちは、ありのままの自分を受け入れることを難しくします。なぜなら、常に人より勝っていない限り、自分を認めることが出来なくなってしまうからです。そして、常に人より勝っていることなど、どんな人にもできないことなのです。
 では、どのようにして私は私であるということを認めていくことが出来るのでしょうか。それは、自分の作り主を認めることによって、可能になるのです。あなたは、自分の意志で、ひとりでに生まれてきたのではありませんね。この天地万物の創造主が、あなたという一人の人格をお創りになったのです。
 神様は、全知全能の方ですから、無駄なことや、無駄なものをお創りになることはありません。神のなさることはいつも、完璧なのです。決して間違いをおかすことのない神様が、あなたをお創りになった以上、あなたの存在は決して、間違いではありません。どんなに小さなものも、どんなに弱くなった人も、神様の前には意味と使命と価値が燦然と輝いているのです。

役に立たない人など神様にはいない

 今年、41歳でプロの将棋指しになった方に、今泉健司さんという方がいらっしゃいます。7歳で将棋をはじめ、14歳でプロへの登竜門である奨励会へ入門します。そして、20歳で三段になりましたが、26歳までに四段にならないと、プロにはなれないのですね。彼は、三段まではすいすいと行ったのですが、足踏み状態が続き、そして、26歳までに四段になることはできませんでした。それから彼はいろいろな仕事を転々としますが、慣れない仕事とストレス、これで同僚とのコミュニケーションがうまくいかずに、75キロあった体重が、気が付けば55キロまで落ちていきました。
 ところが、ある時、知り合いの紹介で、介護士になったのです。認知症のお年寄りは、彼の予想を超えるようなことばかりをしてくるそうです。しかし、そのうちに、何があっても動じなくなったのですね。そして、「ありがとう。」とこちらから話しかけると、「ありがとう。」と返ってくるということを、この高齢者の方たちから学んでいきます。彼は心を使って生きるということを、少しずつ少しずつマスターしていったというのです。そして、そうすることで、気持ちの浮き沈みがなくなってきました。それはメンタルゲームと呼ばれる将棋において、一番大切な部分でした。
 かつては、敗戦するたびに棋盤の駒をぐちゃぐちゃにしてしまう、激情型の人間であった彼を再び勝負師に生まれ変わらせたのは、棋界の並み居る師匠たちではなく、認知症の高齢者の方々だったのです。誰の役にも立たない人など、神様にあってはいないのですね。

罪の赦しを受け入れる

 第二に自分を受け入れるためのポイントは、神による罪の赦しを受け入れることなのです。聖書の中に中風を患う男性に対して、イエスキリストが見るなり言われたことばが記録されています。

「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦されている。」

 ひどい病苦で悩んでいる人に対して、キリストは開口一番、「元気になれ」とか「病よ去れ」と言われたのではなく、「あなたの罪は赦された。」とおっしゃったのはなぜなのでしょう。実はこの病人は、肉体の病の癒し以上に、罪のゆるしを渇望していたからです。
 彼を最も苦しめていたのは、肉体の病苦ではなく、取り返しのつかない過去の罪に対する良心の責めであったのです。そして、この罪責感こそは、人が自分を受け入れさせないようにしている大きな原因なのです。

キリストがあなたの罪を背負われた

 私たちは、悪を行ったものは、幸せになってはいけないという感覚をなんとなく皆さん持っているのではないでしょうか。悪を行ったものが受け取るべきは、祝福ではなく、刑罰であるべきだという感覚ですね。これは、正義感から生まれたものであって、決しておかしくはない、自然なものであると思います。
 しかし、だからこそ、自分自身が悪を行い、罪を犯したと自覚するとき、そんな自分が幸せになってはいけない、祝福を受け取ってはいけない、私は生涯償いの負い目を負って生きていかなければならないと考えるようになるのです。そして、これは当然のことであります。しかし、そこには、人生の解決がないのです。
 しかし、イエスキリストが、この世に来てくださいました。キリストは、あなたの罪を背負って、今から2000年前、あのカルバリの十字架にかかり、あなたの罪を、刑罰を、あなたに代わって受けて下さったのです。そして新しい人生のスタートがあるということを立証するため、死後3日目に蘇ってくださいました。

「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦されている。」

どうぞこのイエスキリストの宣言をご自身への言葉として受け入れ、イエスを救い主として、信じ、受け入れてください。心からお勧めしたいと思います。

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