新約聖書
「自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。」
(ルカ6:32)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.832 2016年3月6日

「神の愛と罪人の愛」

おはようございます、高原剛一郎です!

カット
精神医学会の両雄、フロイトとユングが初めて出会ったとき、彼らは互いの理論の共通点を何と13時間も語り合い、意気投合し、この奇跡的な出会いに感激したんです。そしてフロイトはユングのことを「最も期待しうる後継者」と絶賛し、ユングはフロイトのことを「生涯で出会った最も偉大な人物」と評価したんです。
ところがやがてユングが言った「お互いの夢を分析してみませんか」という提案に対してフロイトは「プライバシーの侵害になる」と言って断るんです。この些細な出来事がきっかけで二人の仲は修復不能な絶縁状態になってしまうんです。あれほど互いを尊敬し、必要としあい、慕っていたはずなのに生涯の敵になってしまうとは人間の持つ愛の難しさを改めて考えさせられてしまうエピソードです。

罪人たちの愛は自分を愛する愛

この人間の持つ愛についてキリストはこのように語っています。

自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、同じことをしています。

私たちは愛すること愛されることに飢えていますね。実際世の中に流れている歌の多くのテーマは愛ですね。愛とは本当に良きもの、必要なもの、大切なもの、という共通認識があると思います。しかし、聖書によると罪人たちの愛とよばれるものがあって、その愛の本質は自分を愛してくれるものを愛する愛のことだっていうんです。そして、それは取り立ててよいものとは言えないと語られているのです。

相手を愛しているのではなく、自分を愛している?

ある母親が年頃の息子にガールフレンドのことを聞いたそうです。「彼女はあなたのどういうところが好きなの。」
息子は言いました。「僕が頭が良くて、スポーツが出来て、ダンスがうまくて、センスが良いと思ってるようだね。」
そこで更に聞いたそうです。「あなたは彼女のどういうところが好きなの。」「僕が頭が良くて、スポーツが出来て、ダンスがうまくて、センスがいいと彼女が思ってるところさ。」
すごい答えですね。彼が彼女を好きなのは、彼女が彼の自尊心を満たしてくれるところだと言うんです。つまり彼女自身のことを愛しているのではなく、彼女が彼をいい気分にさせてくれることを愛していると言うわけです。
一見問題なさそうに見えるんですが実は大問題です。と言うのは、彼女は彼の自尊心を満たすことをやめたとたんにこの愛は冷めてしまうからです。このような条件付きの愛を罪人たちの愛と言うのです。
どうしてこれが罪人たちの愛なんでしょう。結局相手を愛してるのは相手のためではなく自分のためだからです。自分がいい気分になれるので相手を愛してるんですね。 つまり愛してるのは結局自分であって相手ではないのです。

夏目漱石の幼少期

2016年の今年は、文豪夏目漱石没後100周年だそうです。文字離れ、書籍離れに歯止めをかけようと、あっちこっちの大型書店でちょっとした漱石特集が開催されています。私も自宅の漱石を改めてひも解いてみました。
実は漱石は8人兄弟の末っ子なのです。母親は41歳で出産に負担があり、漱石は歓迎されないで生まれた子でした。それで彼は生まれて間もなく里子に出されてしまうのです。彼は貧しい古道具屋の夫婦のもとに送られるんです。
ところが、とある縁日か何かのとき、たまたま店の前を通りかかった漱石の姉が幼い漱石を見て胸を痛めるのです。何と彼はかごに入れられガラクタと一緒に古道具屋の店先に置かれてたんですね。不憫に思ったこの姉は、そのまま黙って漱石を家に連れ帰ってしまうのです。しかし、家の中には彼を受け入れる余裕はありませんでした。
今度は塩原庄之助という夏目家の書性をやっていた人の養子になるんです。子供のいなかった塩原夫妻は幼い漱石を溺愛しました。実子として戸籍に入れ我が子のようにかわいがります。特別裕福とは言えない家でしたが漱石のためには出し惜しみをせずに、おもちゃであろうが、着物であろうが、ふんだんに高価なものを買い与えたと言います。

愛の形をしたエゴイズム

幼い漱石は何一つ不自由なく暮らし、めでたしめでたしと言いたいところなのですが、一つ問題があったのです。この塩原夫妻は幼い漱石に執拗なまでに連日問うてくる質問があったと言うのです。
「お前の父さんは誰だい。お前の母さんは誰だい。」それは脅迫的なまでに尋ねられてくる質問でした。幼い漱石は内心辟易としながらも両親の気に入るように二人を指差したのです。そうする以外に選択の余地はなかったんですね。
しかし、特に養母の方はそれでも安心できず「本当は誰の子なの。誰が一番好きなの。」
彼女は自分が納得する答えが返って来るまで延々とこの質問を浴びせ続けたと言うのです。
後に漱石はある作品の中で養父母の愛情を分析し、「それは、金の力で美しい女をかこっている人が、その女性の好きなものを言うがままに買い与えているのに似ている」と喝破しています。それは漱石が好きだから愛するというのとは微妙に違っていて、漱石から満足を得るために物を買い与えているのに過ぎず、何とも言えない押しつけがましさと違和感が付きまとうものであったと言うのです。幼い漱石はその期待に合わせて行動するしかありませんでした。そして成長するに従ってこの養父母に大反発するようになっていくのです。それは明らかに反動であったのです。
養父母の愛は漱石のために漱石を愛したとは言えないようなものでありました。それは養父母自身のために漱石を愛していたのです。愛の形をしたエゴイズムに他ならなかったのです。

自分の敵を愛しなさい

ですからキリストはこうおっしゃったのです。罪人たちでさえ自分を愛するものを愛している。しかし、それは罪人の愛なのだと。ところが続けてこうもおっしゃっているのです。

ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもと呼ばれるのです。あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。

キリストの愛、十字架

この恩知らずの悪人にも憐み深い方の憐み深さが最も衝撃的に現れたのがイエス・キリストの十字架なのです。
キリストはその生涯で良いことしかなさらなかった方です。その良いことを受けてきた人々が、キリストの恩を忘れてキリストの恩をあだで返し、十字架に磔にした時、キリストは憐み深さで胸がいっぱいになったその心で祈ってくださいました。

父よ。彼らを赦してください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。

と。そのように恩知らずの悪人から悪を返されている只中でキリストはご自分のいのちで罪人の身代わりとしてご自身を神に差し出されたのです。
これこそが無条件の本物の愛です。この本物の愛によるキリストを救い主として受け入れていくことがいと高き方の子になる唯一の道なのです。
どうぞこのイエス・キリストを信じ受け入れてください。心からお勧めしたいと思います。

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