新約聖書
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」
(ローマ3:23,24)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.833 2016年3月13日

「身代わりとなった救い主」

おはようございます、高原剛一郎です!

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さて今年2016年はアメリカの大統領選挙のある年です。世界最大の影響力を持つ政治家が、新しく選ばれるので、世界中がたいへん注目するんですね。
ところで第四代目のアメリカ大統領に、ジェームズ・マディソンという人がいました。彼は合衆国憲法の父という偉大なタイトルを持っていますが、同時にたいへん不名誉な呼び名も持っているんです。彼の在任中、イギリスとの戦争が勃発します。それで大統領官邸は、イギリス軍によって焼き討ちに遭うんですね。
間一髪で彼は脱出し、命を保つことができたのですが、その結果、戦争で首都から逃げた初めての大統領、という異名が付けられてしまうんです。そこでマディソンは戦争終結後、新しいスタートを切るために、それまでグレーだった大統領官邸を思い切って、真っ白のペンキで塗り尽くしたんです。これが現在のホワイトハウスの由来です。彼は、砲火と戦闘でボロボロになった大統領官邸を真っ白に塗り尽くすことによって、忌まわしい過去と決別した、ということを宣言したんですね。

ローマ人への手紙3章23,24節

聖書は、私たちの罪がたとい緋のようにのように赤くても、雪のように白くする、この神さまの救いを語っている書物です。
今日は私たちの罪をきよめ尽くして新しい人生に導き入れる神さまの約束をご一緒に考えたいと思います。
聖書の中にこう書いてあります。

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

ここから、三つのポイントでお話いたしましょう。

すべての人は罪人

まず第一に、すべての人は神に対して罪人であるために、神が用意された本物の祝福や、天国に行くことはできなくなっている、という宣言です。
先日ある雑誌の法律相談に、大学生の質問が掲載されていました。彼はある時、インターネットでアルバイトの募集記事を見つけるんです。そこにはこう書いてあったんです。
「書類や簡単な荷物を受け取るだけで高収入が得られます。簡単な集金の仕事です。」と。
それに応募した彼は、指定された駅前で、おばあさんから紙袋の包みを受け取ったのですが、たったそれだけの仕事で、なんと三万円もの収入を得たというんです。
しかし、後になってから怖くなりました。それはおそらく「オレオレ詐欺」の受け子と呼ばれる仕事に違いないからです。仕事をしている時は、違法行為とは思ってもみなかった、というのですが、これは犯罪の加担者となることです。もし裁判になっても、知らなかったという言い分はまず通用しない、というのが弁護士の答えでした。
また最近、たいへんな広がりを見せているものに、ネットオークションというのがありますね。要らなくなった物をインターネットでオークションにかけて販売するんです。これは犯罪でもなんでもありません。ただしネットで古くなった物を仕入れて、それをまたネットで転売するということは、許可なしにはできないそうです。それをするためには、古物商許可を取る必要があるというんです。この許可証なしにすることは、違法行為、犯罪行為にあたるというのです。
また、公園にペットの死骸を埋めたり、タイムカプセルのように思い出の品を入れた物を埋めるのも犯罪です。これはゴミの不当投棄とみなされる可能性が大きくて、公園側からそのように見なされた場合、最高刑で五年以下の懲役、罰金だと最高一千万かかるというふうに言われています。
さてこれらの犯罪は、本人が悪いと知っていたかどうかとは、関係がないのです。たとい知らずにしたことであったとしても、法律上、さばきの対象になるのです。

創造主を無視するという罪

ところで日本人が罪だとは思っていないことで、実は大きな大きな罪と呼ばれるものがあると、聖書は語ります。それは自分の創造主を無視して生きることです。
すべての人はこの自分の造り主である神を無視し、神から離れ、自分中心に人生を考えて生きています。聖書はこの生き方を罪と語っているのです。
私の幼かった頃、イソップ寓話の絵本をよく読んだものです。その中で今でも印象に深く残ってる話が、「農夫とへび」という話です。
ある冬の日のこと、農夫は一匹のへびが寒さによって息も絶え絶えになってるのを見つけるのです。かわいそうに思った彼は、そのへびを懐に入れて体温で温めながら、家に戻るのです。そして暖炉の前においてやると、徐々に元気を取り戻すのです。そしてすっかり元気になると、農夫に襲いかかり、毒牙にかけてこの農夫を殺してしまうのです。
なぜこの話が今に至るまで心に残ってるのか、自己分析すると、納得いかない話だからです。親切にしてくれた人に反逆するところで話が終わっているということに、心がストレスを感じるんですね。恩をあだで返す、とはこのことです。よく尽くした方が、致命的なダメージを負い、良くしてもらった方が、恩人を殺害し意気揚々としているという結末に心が落ち着かないのです。
つまり、こんなことはあってはならないという義憤が収まらないのです。この、あってはならないことが、堂々とまかり通っているのが今の世界ですね。人間を造り、生かし、支え、そして人が生きていくのになくてはならない必要なすべてのものを、ただで与えておられる神を人は自分の人生から除外して生きています。これは自分の作者に対する反逆です。この世の中でも、犯罪には罰が伴います。ましてや人が犯した罪にも罰があるのです。
しかし神はその罰を人にではなく、イエス・キリストに問うてくださったのです。ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いのゆえに、義と認められる、とあるからです。

ある挙動不審な老人

スイスのとある貧しい村で元気に走り回って遊んでいる子供たちを、じっと見つめる老人がいました。しかし、どうも挙動が不審なんです。いつも子供たちを見守りながら、時に腰を折って、しゃがみ込み、何かを拾い上げてはポケットの中に入れてるんです。その光景が来る日も来る日も続くので、警官が怪しんだんですね。
「おじいさん、失礼ですが、何を拾ってるのか見せてくださいませんか。」
老人がもじもじしていたので、ますます怪しんだ警官は、彼のポケットに手をねじ込んだんです。するとその中には、ガラスの破片や錆びた釘がいっぱい詰まっていたっていうんです。おじいさんは子供たちを指して言いました。
「だって、ほら、みんな裸足でしょ。」
この老人こそは、近代児童教育の父と呼ばれるペスタロッチです。彼は子供たちが怪我を負わないように、誰に頼まれたわけでもないのに、ただ黙々とそして誤解されることを恐れずに、地面に身をかがめて、ゴミを集めていたというのです。

あなたの救い主、キリスト

それと同じように、キリストはあなたが罪の刑罰を、永遠の地獄で受けないように、黙って地に下り、人となって、そしてあの十字架にかかり、罪というゴミを背負って、あなたの身代わりに死んでくださった方です。この死んでくださった方、いや、よみがえられたキリストこそ、あなたの救い主なのです。
どうぞこの救い主を心に受け入れて、神さまに義と認められる生涯の中にお入りください。心からお勧めしたいと思います。

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