新約聖書
「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」
(ピリピ2:6-9)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.849 2016年7月3日

「キリストの生涯がもたらした福音」

おはようございます、高原剛一郎です!

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さて私の愛読書の一つに「ネガポ辞典」というのがあります。否定的な言葉を肯定的に言い換える辞典です。「鈍感」は「打たれ強い」、「軟弱」は「母性のくすぐり上手」、「しわ」にいたっては「ビンテージライン」だそうです。ビンテージていうのは時間とともに値打ちが出るものを言います。しわを単なる老化の印ではなく、ワインに置き換え、価値あるものとして紹介しているところがいいですね。
元々この辞書は言葉で傷ついた友人を励ますために北海道の女子高生たちが考案したのが始まりでした。読んでいて元気になるのはそこに書き手の眼差しの温かさがあるからです。
しかし、それ以上に人間を奮い立たせる書物があります。それは神の言葉、聖書です。この聖書の主題はイエス・キリストです。イエス・キリストがしてくださったことの中に人が必要とするすべてのものが入っています。

ピリピ人への手紙2章6~9節

今日はキリストの生涯をうたった個所をお読みしましょう。

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。
人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

今日はここからキリストがしてくださったことをお話しいたしましょう。

キリストは人になられた

第一に、キリストは神なのに人としてこの世に来てくださったということです。
宇宙の創造主なる方が被造物である人間となってこの世に生まれ、人間に仕え、寄り添われました。それは人の弱さに心から共感できる神がおられるのだということを示すためです。
今年の4月、ノースカロライナ州の裁判所でジョセフ・セルナという男が出頭を命じられました。彼は飲酒運転で逮捕され、その上検尿の結果についても虚偽申告していたのです。裁判官のルー・オリベラ判事は彼を24時間独房に収監する判決を言い渡したのです。
独房の簡易ベッドでセルナは座っていました。ところが突然、鉄格子が開かれ何と裁判官のオリベラが中に入ってきたのです。二人はそれから徹夜で語り合います。セルナは後に「父と息子の会話より濃いものだった」と言いました。
オリベラ判事はどうしてここまで親密に寄り添ったのでしょう。実は彼は裁判官になる前、軍人だったのです。そして収監されているセルナは陸軍特殊部隊グリーンベレーの猛者だったのです。アフガン戦争には4回趣き、自爆攻撃を受けて3度も死にかけ、名誉の負傷兵だけが受けることが出来るパープルハート勲章を3つも持ってる人物でした。
しかし、そうした戦場での生々しい記憶がPTSDとなって彼を苦しめました。そして他の多くの帰還兵がそうであったのと同じように精神の安定のためにアルコールや薬物の力を借りるようになっていったのです。
オリベラ判事は裁判官としては実刑の言い渡しをしなければなりませんでした。しかし、裁判が終わればまるで戦友であるかのように法廷から降りてきて一緒に牢獄の中に入って独房で一夜を過ごしたのです。同じ軍人だったからこそ恐ろしい戦場体験のあの辛さが分かるのです。
キリストは人間と同じようになられました。それはあなたが人間であるからです。神のあり方を捨てて、人としてあなたの心を理解し、寄り添うためにこの世に来てくださった方、それはあなたを愛してるからにほかなりません。

キリストは十字架につかれた

第二に、キリストは死にまで従い実に十字架の死にまでも従われました。
キリストは100%人となられたのです。ですからキリストも食べないとお腹が空きます、飲まないと渇きます、何かで切られれば血が出ます、殴られたら痛いのです。
しかし、私たちとは違う点があったのです。この方には罪が無いのです。この罪のないキリストがなぜ十字架の死にまで従われたのでしょう。罪人の刑罰を身代りに引き受けるためです。
レ・ミゼラブルの中で印象深いシーンがあります。今はマドレーヌと名乗っているジャン・ヴァルジャンが町を歩いているとき事故が起こります。路地で馬がつまづき倒れて、老人が荷馬車の下敷きになるのです。馬は両足とも骨折していてもう立ち上がることが出来ません。老人は車輪の間に挟まれ重い荷物を載せた馬車で押しつぶされそうです。みんな彼を引き出そうとしますがどうしてもできないのです。
マドレーヌ市長は「車の下に潜り込んで、背中で持ち上げる人間には賞金を出します」と募るのですが誰ひとり応じません。その時ジャン・ヴァルジャンをずーっと追いかけていた刑事が一言こう言うのです。「そんなことが出来る男は今まで一人しか私は知りません。その男は囚人でした。怪力の囚人ジャン・ヴァルジャン。」マドレーヌ市長は黙って膝をついて車の下に潜り込み、そして渾身の力で下から押し上げてしまうのです。
作者のビクトル・ユーゴはここにキリストを見ています。キリストは自ら不利になるということを分かりながら、私たちを押しつぶそうとしている重い重い罪の責任を自らが背負って持ち上げ、あの十字架の上で永遠の彼方に持って行ってくださったのだと言うのです。それによって私たちは罪の刑罰から解放されるのです。

キリストが罪から解放してくださった

第三に、キリストは死後墓に葬られ、三日目に復活し、神によって高くあげられたということです。
キリストは死んだままの人ではありません。死んでよみがえり天に高くあげられた方です。この復活によって私たちの償いが完全に成功したということが証明されているのです。
今から150年ほど前、D.L.ムーディーというアメリカの伝道者がいました。彼がアイルランドに行ったときのことです。友人と道を歩いていると一人の少年が手に雀を握ってもてあそんでいたのです。その時友人は少年に向かって「離してやったらどうだい。」と呼びかけたのです。しかし、「捕まえるのに3時間もかかったんだ。だからいやだ。」と言うんですね。「でもそんなことをしても何の役にも立たないだろう。」と説得するのですが「僕が捕まえた雀をどうしようがおじさんには関係ないだろう」とにべもありません。そこで友人は少年に言いました「私がその雀を買うよ、だから君はその雀を離してほしい。」少年は喜んでそれに応じたのです。
雀よりも少年の力の方が強いのです。ちょうど私たちよりも私たちをがっちり握っている死の力の方が強いように。しかし、友人がお金で雀を買い戻したように、キリストはご自分の命であなたを罪と死から解放してくださったのです。
必要なことは一つだけです。あなたのために神なのに人となり、十字架の死にまでも従い、身代わりの命を捧げ、三日目に復活したイエス・キリストを自分の救い主として信じ受け入れることだけでよいのです。
どうぞこのイエス・キリストを信じてください。心からお勧めしたいと思います。

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