新約聖書
「神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられました。」
(IIコリント5:19)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.850 2016年7月10日

「違反行為の責めを負ったキリスト」

おはようございます、高原剛一郎です!

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おはようございます。髙原剛一郎です。 ところで、たまにレストランやラーメン屋さんに入ると、群を抜いて気の利くスタッフが一人か二人いるもんです。とにかくよく機転が利くというか、目ざといというか、頭の回転が速いというか、動きもきびきびしていて、見ていて気持ちがいいですね。
そしてそういう人はたいてい、働く目的がはっきりしています。それは、将来自分の店を持つ、という目的です。将来、オーナーになった時のための修行しているというつもりで今を働いている人ですね。そういう人は仕事はやらされてる、という感覚はあまりありません。自分の夢を実現する準備作業しているという、そういう心構えであると思います。輝かしい未来につながる行動は価値ある行動ですから、力が湧いてくるんですね。

人生の究極の目的

ところで人生の究極の目的、究極の生き方、究極の使命とは一体なんでしょう。
今日はこのことに触れている聖書をお読みいたしましょう。

神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられました。

ここから三つのポイントでお話いたしましょう。

知的作業をする人工知能

第一に、あなたには、あなたの造り主である神のために造られた、という目的があるということです。
近年、大きな注目を集めてるものに人工知能があります。人間が作り出した知能ですね。今までは人間がやってきた知的作業ができるコンピュータのプログラムのことです。
最近、高齢者の運転事故のニュースがずいぶん増えました。高速道路を逆走したり、ブレーキとアクセルを踏み間違えて、お店に突っ込んで行ったりというそんな事故です。それで一定年齢を越えると、免許証の返納を勧められるケースが多いようです。しかし、車がなければ日常生活に不便をきたす方々もいらっしゃいますね。そこで人工知能による自動運転車の実用化が待たれているんです。
この実現はもうあと一歩のところにまできてるんですね。いや、それどころか今や人工知能ってのは、天才作家の未完成小説の続きを書き上げたり、14歳の女の子になりすましてチャットに参加したり、ロケット搭載の人工知能が、自らの異常に気づいて、自分で発射停止命令を下したりしてます。
実は今年2016年というのは、コンピュータ登場からちょうど70年に当たる年なんです。世界初のコンピュータ、エニアックは1946年に完成したんです。それからたった70年しか経ってないのに、将棋や囲碁の世界チャンピオンも歯が立たないような、知的作業ができます。

罪とは目的はずれの生き方のこと

しかし、喜んでばかりではいられないのです。人工知能が自ら判断して、人間を攻撃する兵器がすでに開発されているからです。
例えばアメリカでは、無人ロボット船、シーハンターという軍用艦船を完成させました。これは海中に隠れた潜水艦を見つけ出して攻撃する、無人ロボット攻撃船です。船の上には人間は一人も乗っていないばかりか、外部からの遠隔操作も必要ないのです。すべて船に積み込まれてる人工知能が自ら判断して攻撃するという船なんです。
こういうものが出てくるようになって、専門家の人々は警告を発するようになりました。もし人工知能が自分の意思をもって自立し、さらにこれまでにないような速さで能力を上げ、自分自身を設計し直すようになった時、人間はどのように対処できるか、っていうんです。
そこで人工知能については従来からロボット工学三原則というものが示されてきたのです。簡単に言いますと、ロボットは第一に、人間に危害を加えてはならず、第二に、人間の命令に服従しなければならず、第三に、前の二つの原則に違反しない限り自分を守らなければならない、という原則です。ま、ひと言でいうと、人間に逆らうロボットであってはならないというのです。
これは、誰もが同意できることだと思います。なぜなら、人間に作られたロボットは、人間のために存在してるからです。人間に反抗し、襲撃してくるようなロボットはもはや本来の存在目的から外れているという意味で、どんなに能力的に優秀であったとしても、不良品なのです。
それと同じことが、神と人間の間にも言えるのです。ロボットが人間のために作られたように、人間は神のために作られたのです。ロボットが作者に武器を向けることが断じてあってはならないのと同じように、人間は自分の作者に反抗し、無視し、自己増殖していくということは、あってはならないことなのです。
そしてこのあってはならないことを、聖書は、罪というのです。そしてすべての人は神に対してこの罪人となってしまいました。基本的にすべての人間は、神を無視して自己中心に生きる権利があると思って、生きているからです。

神は人を愛しておられる

第二に、神はそのような人間に対して、違反行為の責任を負わせなかった、というのです。
昔インドにマハトマ・ガンジーという人がいました。インド独立の父です。マハトマというのは、偉大なる魂という意味です。インドの詩人タゴールから贈られた呼び名なんですね。
非暴力、不服従でイギリスからの独立運動を指揮した偉人です。しかし、初めっから偉大であったわけではないんですね。
少年時代、実は彼の家の近くに崖があったそうです。ガンジーはなぜだかその崖で、ハラハラするような鬼ごっこをするのが大好きな少年でした。しかし、見るに見かねた彼の父親が崖で遊ぶことを禁じたのです。そしてもしこの言いつけを破るなら、容赦せずに鞭で打つと言ったのです。
ガンジーは震え上がりました。鞭はたいへんに痛いものであると知っていたからです。しかし、父親が出張に出て、しばらく家に帰ってこないということがわかった時、彼はどうしてもあの崖で遊びたくなったのです。そうして見つからなければいいと父親を侮り、崖で遊んでいたその時に、父親が予定変更で早くに帰宅したのです。
ガンジーは父の命令に背いているところを父親に見られてしまったのです。父親はガンジーを小屋の中に連れて行きました。そしてシャツを脱げと言ったのです。ガンジーは裸の背中を父に向け、目をつぶり、歯を食いしばりました。ところがいつまでたっても、鞭は振り下ろされないのです。
いぶかしく思ったガンジーがそっと目を開けてみると、涙をぽたぽた落としながら、愛する息子を打つに打てないで立ちすくんでる父の姿を見たのです。それ以来、ガンジーは二度と父の言いつけに背くことはなかったといいます。
ガンジーの父は、ガンジーの違反行為の責めを、彼に負わせなかったです。それは息子を愛していたので、自らの手で傷つけることができなかったのです。
神さまは、あなたに違反行為の責めを負わせたくないのです。あなたを愛してらっしゃるからです。

キリストが代わりに罪を負われた

第三に、その違反行為の責めは、あなたに代わってイエス・キリストが負ってくださったのです。このキリストの身代わりの死と、三日目の復活により、人間の罪はすべて神の前に忘れ去られるものとなったのです。
どうぞあなたも、イエス・キリストをご自分の救い主として信じ受け入れてください。心からお勧めしたと思います。

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