新約聖書
「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。『先生。彼が盲人に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。』イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためなのです』」
(ヨハネ9:1-3)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.856 2016年8月21日

「問うものから問われるものへ」

おはようございます、高原剛一郎です!

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さて、ロシアという国は、昔から薬物・毒物に国家ぐるみで関わることで有名でした。
帝政ロシア末期に権力をほしいままにしていた怪僧ラスプーチンの暗殺には、青酸カリ入りのお菓子が使われました。ソ連時代に入ると本格化していきます。
権力を手にいれたレーニンは、極秘の毒物研究所を1921年に設立しました。それは、ソ連政府の敵と戦うためでした。
ところが、皮肉なことに最初の犠牲者はレーニン本人でした。スターリンが黒幕であった可能性が高い、といわれています。毒殺研究は、今のプーチン政権にも引き継がれています。
2006年にはロンドンで、英国に亡命中のロシアの元情報将校が、放射性物質ポロニウム入りの紅茶を飲まされて死亡しました。犯行はおそらくプーチン大統領の承認を得ているという調査結果を、イギリス当局が今年の一月に発表しています。
今回のオリンピックの直前に世界をにぎわしたロシアのドーピング問題も、構図はそっくりです。世界アンチドーピング機関の調査チームは、国ぐるみの不正だと断定したのです。にもかかわらず、国際オリンピック委員会は、リオオリンピックのロシア選手団全面除外処分を見送りました。これにより、どんなに証拠が挙がっていても、相手が大国ならば無理が通るという前例を残してしまったのです。
世の中にはときどき、力の前に正義が曲げられたり、公正がゆがめられたりすることがあります。そして、そういうとき、それに腹を立てて愚痴るだけの人になってしまいそうになります。

生まれつきの盲人を見られたイエス

人生の中で次々と起こる不公正や不正義や不条理に対して、私たちはどのように対応していったら良いのでしょう。
聖書の中にこんな話があります。
あるとき、生まれつきの盲人のこじきを、イエス・キリストがご覧になりました。そのとき、弟子達がキリストに質問するのです。それは、実に残酷な質問でした。
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」。
人生における不可解な問題を目の当たりにするとき、私達がつい、してしまいがちな不毛の質問が3つあります。その問い方をしている以上、人生は行き詰まります。

不毛な質問1:誰のせいか

その第一の不毛の質問は、「誰のせいでこうなったのですか」と問うことです。
ちょうど、先ほどの弟子達が言ったとおりです。この問いには、必ず、自分の不幸には犯人がいる、私は誰かのせいでこうなってしまった被害者なのだ、という見方を不動の事実としてしまうものがあります。
まあ実際、誰かのせいでひどい目に遭ったとしかいえない事件っていうのはたくさんありますね。しかし、誰かのせいで起こった事件と、その事件の後の人生を作った責任とは、分けて考えなければなりません。辛い事件の後でどんな人格になったのか、どんな人生を歩んだかを決めるのは、誰かではなく、ご本人であるからです。
しかし、誰のせいで、という問いにしがみついていると、新しい人生の展望は開けません。それどころか、いつまでも、自分の気になるあの誰かに支配されたままになってしまうのです。

不毛な質問2:いつになったら

不毛の質問の第二は、「いつになったら」と問うことです。
いつになったら、送ったメールの返事が来るんだろう。いつになったら、息子は期待通りの学校に合格するんだろう。いつになったら、景気はよくなるんだろう。いつになったら、孫がうまれてくるんだろう。この「いつになったら」という質問も、人を不幸にする問いです。というのは、たいてい、自分ではどうにもできないことに、自分の人生の土台を置く見方であるからです。
私たちは、自分でどうにもできないことが少なくともふたつあります。それは、過去を変えることと、他人を変えることです。いつになったら夫は変わるんだろう、いつになったら妻は変わるんだろう。期待することはよいのですが、そこにこだわっていると、いま自分ができる事をしなくなってしまいます。
自分でできないことを手放し、いま自分ができることに集中していくことこそ、人生が変えられていく道です。そして案外、いま自分ができることというのは、確かにあるものなのです。そして、自分ができることに専念していくとき、思い煩いからの解放が訪れるのです。

不毛な質問3:なぜこうなったか

第三の不毛の質問、それは「なぜこうなったか」という問いです。
なぜ、私の身の上にばっかり不幸が続くんだろう。なぜ、あの人ばっかりうまくいくんだろう。なぜ、このタイミングでこんなことが起こるんだろう。うまくいかないことと、うまくいかない理由を自分の外側に探し続けて、なぜなんだ、なぜなんだと問うていると、人生に打ちのめされてしまいます。なぜなら、打つ手が何もないように見えてくるからです。
いま起こっていることの意味や理由は、普通は、すぐにはわからないものです。私たちは今しか生きていないので、いま目の前の事件が、10年後、20年後、どんな展開に至っているかなど、思いもつかないからです。

不条理に対するキリストの答え

では、キリストの答えはなんだったのでしょう。

この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。

あらゆる不条理なことは、神のわざが現れるための舞台だというのです。
私達がすべきことは、なぜ、と問うことをやめて、今のこの辛い現状の中でキリストに力を現していただくために、私がキリストに求められていることは何か、と考え、それをすることなのです。
私達が人生に対して、なぜなんだ!と怒っているとき、それは神に対して怒っているのとほぼ同じです。そして、怒りの正体の根底にあるのは、神よりも私の怒りのほうが正しい、という前提です。その怒りは、神をとっちめようとする人間の怒りなのです。
しかし、どんなときでも、神は人よりも賢く、人よりも正しく、人よりも哀れみ深いかたなのです。
じつは人生は、私が「なぜ?」と問うものではなく、私のほうが、人生と神から「さあ、あなたはこの課題に対してどのように応答しますか」という問いなのです。
「あなたはどのように反応しますか」
「私のことばの前にへりくだって従いますか、それとも今まで通り、あなた自身が正義の審判者となって、人生と神をさばき続けるのですか」
と、問うておられるのです。
人間的に見たら、自分の側のほうがよっぽど正しい、ということであったとしても、神様の前には、今までの自分はどうだったのか、100%正しかったのか、私の側に改める点はなかったのか、と問われていくということが、その人の人生に神のわざが現れる第一歩なのです。
どうぞ、神の子イエス・キリストの主権の前にひれ伏して、このかたの救いの招きを受け入れて下さい。心から、お勧めしたいと思います。

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