新約聖書
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
(Iヨハネ4:10)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.866 2016年10月30日

「いのちに代えても伝えたい神の愛」

おはようございます、那須清志です!

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私は毎年、ボランティア活動で東北を訪れています。
今は、教会のコーラス仲間と共に仮設の集会所を伺い、ミニ・コンサートを開くのが中心になっています。比較的高齢の方が多いこともあって、懐かしい童謡や唱歌を歌うことが多いのです。
いのちに代えても伝えたい神の愛実は唱歌と讃美歌には深い関わりがあります。明治時代に入り、子供たちのために多くの唱歌が作られましたが、その中には欧米で讃美歌として使われていたものを替え歌にして作ったものも少なくなかったのです。
日本の若者たちに音楽を教えた外国人教師たちの中に多くのクリスチャンたちがいたことも、その理由のひとつです。そんな曲の一つに「星の世界」があります。今でも、小学校の教科書に載って歌われていますが、もともとは有名な讃美歌です。日本で歌われていうものとしては「いつくしみ深き」という歌詞が一番有名でしょう。
あるところでミニコンサートの一番最後にこの曲を歌いました。「みなさんが教会に行く機会があったら、きっと耳にする曲でしょう。」と言いながら、エピソードを紹介していました。その時、ふと口から出たのが「この曲は結婚式にも歌われますが、いわゆるお葬式にも歌われる意味深い曲です。」ということばでした。
コンサートが終わり、席に戻ると目の前に、おばあさんが何とも言えない穏やかな気持ちで話しかけてくれました。私が「何か思い出がある曲がありましたか。」と尋ねると「最後に歌われた曲は、言われたように、娘の葬儀の時に教会で歌われたものです。」と言われるのです。
私は一瞬ことばを失いそうになりましたが、されに驚いたのは、家族の中でクリスチャンだったのは娘さんだけだったというのです。神さまを信じ、クリスチャンとして歩んでいる者だけが命を取られるというのは、不条理に感じられるかもしれません。しかし、神と共に歩んでいても、いわゆる不幸な出来事に見舞われることがあります。
実例は私たちのまわりにたくさんありますし、聖書の中にも似たようなことが何度も出てきます。
なぜ、という問いにひとことばでは答えにくいのですが、どうとらえていくかを考えるヒントはたくさん隠されています。

神は人の死を悲しまれる

聖書に

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し

とあります。まず、人間に愛の心を与えられた創造主は、人の死に対して誰よりも心を痛め、悲しんでおられる方だということです。
私たちは身近な人の死に対して大きく反応しますが、亡くなった方とのつながりの深さによって、悲しみ方にも違いがあります。
もし私たちが気づかない所で起こっている人の死を同じレベルで悲しむならば、たぶん自分の精神を保つことができないでしょう。それは人間の限界であると同時に、自己防衛でもあるのです。
しかし、魂一人ひとりを造られた神は、人間一人ひとりに等しい愛を注いでおられます。人間の肉体の死を悲しむだけではなく、魂の死についても人間を心配し、永遠のいのちを与えたいと願っておられるのです。

神のもとへ帰る

次に、聖書に明確に示さたことは、神が備えた救いを受けた者は、永遠のいのちを受け、死後神のもとへ帰る、ということです。
亡くなった娘さんはイエスを救い主として信じていました。イエスが自分の罪の代わりに十字架にかかり、救いが完成したことを示すために三日目に復活されたことを信じていました。
なぜ、今回の津波で命を奪われたか、それはわかりません。しかし、人はみないずれ、この地上の生涯を終えなければなりません。
その時、魂の救いを得ているか、得ていないかは決定的な違いを生み出します。突然の死は本人にとっても想定外だったと思いますが、自分が死んだらどこに行くかは、はっきりと知っていました。死後の世界のことは、想定内のことだったのです。
私たちはこの地上でどれほど豊かだったか、どれほど長く生きたかで、人生の成功を判断しがちですが、聖書が語るのはこの地上だけではありません。かえってこの地上は来たるべき永遠の世界の序章にすぎないと語るのです。
信仰を持っていた彼女にとって、突然の死はすべてが終わりになったのではなく、天国への凱旋となり、新しい世界への旅立ちとなったのです。

クリスチャンの死が残すメッセージ

三つめは、クリスチャンの死はこの地に残っている人に強力なメッセージを残す、というものです。
旧約時代のアベルという聖徒はある意味、立派な信仰を持っていたために妬まれ、殺されてしまいました。聖書に次のように書かれています。

アベルは死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。

人の死が地上に残った人々の人生に大きな影響を与えるということはよくありますが、信仰者の死はそれとはまた違った意味で大きなメッセージを私たちに残します。
命の大切さを伝える以上に、地上の命よりももっと重要なものがあるということ思い起こさせてくれます。この地上で命を大切に生きていくというメッセージ以上に、この地上で次の世界のためにどのような準備ができるかを示してくれるのです。
私はふと思いました。もし愛する家族の者に神のメッセージを伝えるために誰かが命を犠牲にするという提案があったとしたら、この亡くなった娘さんは喜んで手を挙げたのではないか、と。
神が犠牲的な愛をもって人間を愛してくださったということを、家族の中で一番知っていたのはその娘さんだったと思うのです。愛する家族が死の問題を解決し、神の用意された天国で再会するために役立つのなら、喜んで犠牲を払おうとされたのではないか、と思うのです。このようなかたちでなければ、伝えることができないのであれば、喜んでこの境遇を受け入れます、と天から祈っておられるような気がするのです。そして自分が語り尽くせなかった神の愛を代わりに伝えてほしい、と私に語られていうような気がしてならないのです。

人の世界に来るという神の愛

これらは、私の想像かもしれませんが、聖書で語られている神の愛は現実にかたちをとって現われました。
神が私たち人間のためになさったのは、想像をはるかに超えたものです。自分の命を身代わりにして、人間の罪を赦し、神との平和をもたらそうとされたのです。
私が住んでいる大阪から東北まで1000キロ近くあります。「遠い所からわざわざ来てくださって。」といつも有り難がられるのです。しかし、命がけで行ってるわけではありません。快く受け入れてくださるから、また行きたくもなるのです。
しかし、神は罪渦巻くこの世界にひとり子イエスを送ってくださいました。神の国から人間の世界に来てくださったのです。
それも、完全な生涯を歩まれたにもかかわらず、人々から憎まれ、妬まれ、最後は十字架で悲惨な死を味わわれました。それらを承知の上で、私たちのために来てくださったのです。
この神から遣わされた救い主イエスを信頼して、神の救いを受け入れてください。この地上で受ける悲しみ、苦しみ、死さえも乗り越える、神の恵みを、ぜひ自分のものとしてくださいますように、心からお勧めいたします。

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