新約聖書
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行っている者はみな、 罪の奴隷です。 奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。 ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」
(ヨハネ8:34-36)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.885 2017年3月12日

「自由をもたらすイエス・キリスト」

おはようございます、高原剛一郎です!

カット
さて日本で一番長く続いているアニメ番組にサザエさんがあります。元々は新聞の四コマ漫画でした。その漫画のサザエさんにこんな話があります。
家の玄関先でカツオが近所の主婦たちを相手に鶏の物まねを披露しているんです。「鶏が卵を産むところ」と言いながら顎を突き出し、口をとがらせ、「クワー、カカカ!」と熱演してるんですね。主婦たちも大笑いです。
サザエさんとフネさんが一体何の騒ぎかと玄関先に出てみると、身内のカツオが恥をさらしているではありませんか。フネさんは「みっともない」とため息をついています。サザエさんも「まったくだわ」と同感です。
ところがそんなことは知らないカツオはうけたことが嬉しくて、いよいよ芸がエスカレートしていきます。奥様達はいよいよ大笑いです。
サザエさんはもうこれ以上ご近所にみっともない真似をさらせてはならないと立ち上がったかと思うと「カツオ!」と一喝するんです。あまりの剣幕にカツオと主婦たちは固まってしまいますが、次の瞬間サザエさんは「そうじゃない、こうやるんだよ!」と言って、よりリアルで生々しく鶏になりきって大熱演するんです。
これには主婦たちも体を二つ折りにして大笑いするんですね。フネさんはカツオのみっともなさよりもサザエさんの方がもっとみっともないので赤面しているという漫画です。
同じみっともなさでもフネさんとサザエさんでは中身が違いました。フネさんは人前でくだらん芸をすることがみっともないと感じたのですが、サザエさんはあんまり似ていない芸がみっともないと思ったっていうんですね。
何をみっともないと感じるかは人格によってずいぶん異なるんです。
ところで何を罪と感じるかについても大きな個人差があるように思うのです。
一般的に罪と言うと有罪判決を受けたり、警察に逮捕されたりするイメージがあります。
しかし、聖書は私たちの造り主なる神を無視して生きることを罪と語るのです。

作者を無視することは罪

話は変わりますが今世界一有名な日本の歌は何かご存知でしょうか。PPAPです。
ピコ太郎が作った長さ1分のPPAPは動画の総再生回数が4億5千万回を突破しているそうです。
ところが先月、問題が持ち上がったのです。実はPPAPとは何の関係もない大阪の会社が特許庁にPPAPの商標登録を申請したというのです。
もちろんピコ太郎さんも彼の契約しているレコード会社も申請したのですが、この会社の申請のほうが何日も早かったのです。もしこれが認められたらPPAPが歌われたり、関連グッズが売れる度に使用料を払うことになるかもしれないと報じられていました。
その時世間はどう反応したでしょう。みんなピコ太郎の肩を持って応援したんですね。
何の関係もない会社が作者をないがしろにして、作者の権利を横取りして儲けようとしてるということに怒りを爆発させたのです。
この会社には連日のように突撃レポーターが押しかけて「あなた厚かましいと思わないんですか!」と詰め寄っていました。レポーターが憤慨する理由は分かります。作者を差し置いて作者でもない人が作者の受ける利権を奪い取り、しかもそのことを何一つ恥じていないという態度に怒ったのです。
作品に対する権利は第一に作者に帰せられるべきです。そして、すぐれた作品を作った作者には当然敬意を払うべきだとみんなが思ってるんですね。
とするならば私たちがこの世界を造られた作者である神様に敬意を払うのはもっともっと当たり前の事ではないでしょうか。
作者を差し置いて、作者を無視し、作品を我が物顔に利用するのが無礼で許しがたいことであるとするなら、この自然界をさんざん利用しながら、その作者である神様を無視して生きることは罪と言われても当然ではないかと思います。

ヨハネによる福音書8章34-36節

あるときイエス・キリストは言われました。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。 奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。 ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。

ここから三つのポイントでお話しいたしましょう。

罪人は罪の奴隷

第一に、罪を行っているものはみんな罪の奴隷だということです。
罪とは神から離れ、神よりも自分の方が自分のことが分かっていると考え、自己中心となって生きることです。
聖書は言っています。あなたと私は毎日考えと言葉と行動で罪を犯しているのだと。
私たちは間違ったことに体を使ったり、付き合ってはならない人と付き合ったり、間違った方法でストレスを解消しようとして、不健康な癖を身に着けて行きます。しかも罪はやればやるほど習慣化していくのです。
一回目よりも二回目のほうがより楽々と罪を犯すようになっていきます。自分でコントロールする力をこのようにして失っていくのです。これが罪の奴隷という意味です。
自分の力で自由になることが出来ないと語るのです。

奴隷に平安はない

第二に、奴隷には平安がないという事です。
「奴隷はいつまでも家にいない」とイエス・キリストは言われました。つまり主人が気に入らなくなったらいつでも家から追い出されてしまうのです。
いつも主人に気兼ねをして、そして機嫌を損ねないようにびくびくしながら生きているのが奴隷です。
そのように罪の奴隷となっている人は本当の心の平安がありません。いつも何かにおびえびくびくします。
人生の終わりには死が待ち構えていますが、その死に対する解決もなくおびえているのです。
それとは対照的に「息子はいつまでも家にいます」とイエス・キリストはおっしゃいました。息子は自分の家ではくつろいでいますね。それはその家の主人の愛を一身に浴びているからです。
自分が主人から愛されているということを確信しているからです。
人はいつの間にか神の子の立場から転落し罪の奴隷と成り果てているのです。
神から離れ、罪の支配のもとでいつ終わるともしれない奴隷状態になっていると語るんです。

キリストは私たちを解放してくださる

しかし、第三にイエス・キリストは私達を自由にするためにこの世に来てくださったと言うのです。
奴隷を自由にするためには奴隷を買取る必要があります。キリストはご自分のいのちで私たちのいのちを買い取って下さいました。そして私たちを自由にしてくださったのです。
何から自由にされたんでしょう。まず私たちを過去から自由にしてくださったのです。
今どん底状態にいる人は過去を振り返ってみた時どん底に至る証拠集めをすると言われています。ダメになった自分は過去にダメになるような目に遭ってきたからと考えて、いかに不幸になることが必然であったかと負の証拠ばかりを思い出すようになると言うんです。
しかし、キリストは私たちに天国の国籍を与えてくださった方です。最後に行くところが天国であるなら、その天国に至るためのプロセスとして人生を眺め直すようになります。
素晴らしい人生の再解釈があるのです。
またキリストは私たちに人の間違った期待からの自由を与えてくださる方です。
人に「ノー」と言えないのはなぜでしょう。人に嫌われることを極端に恐れるからではありませんか。
すべての人に好かれることなんて誰にもできません。キリストだって憎まれたんです。
しかし、変わらない愛であなたを愛する方がおられます。
人を恐れることから自由になる道、それはキリストの愛を受け入れるということなのです。
そして何と言ってもキリストは罪と死から私たちを自由にしてくださったのです。キリストはあなたが死後地獄に行かずに済ませるために必要なことをすべてあなたに代わってしてくださいました。
どうぞこのイエス・キリストを信じ受け入れてください。心からお勧めしたいと思います。

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