新約聖書
『 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。 』
(1コリント13:4-8)

Default Text

「聖書と福音」高原剛一郎

No.894 2017年5月14日

「意志と判断と約束の愛」

おはようございます、高原剛一郎です!

カット
以前、ある方のご自宅に招かれた時、武者小路実篤の直筆色紙を見せてもらったことがあります。
「仲良きことは美しきかな」とありました。
仲が良くて協力しあっている人たちを見ると、こっちまで気分が良くなりますし、いがみ合ってる人たちを見ると、こっちまで嫌な気分になります。
互いに愛し合って協力しあえば、一人で頑張るよりも二倍三倍の力を発揮することができます。だから、愛し合うっていうのは素晴らしいっていう名言ですね。
しかし、この愛というのが実は曲者でもあるのです。
フランスの偉大なる作曲家に、ベルリオーズという人がいます。彼は父親の稼業である医者の道に進もうと医学部に入りますが、解剖学で怖気づいてしまい、19歳の時に音楽の道に進むんです。
24歳の時、彼はパリに公演に来ていたイギリスのシェイクスピア劇団の芝居を観るのです。その時、主演女優だったハリエット・スミスという女優に一目ぼれしてしまうのです。
完全にのぼせあがったベルリオーズは何通もハリエットに熱烈なラブレターを送り面会してくれるように懇願しますが、ハリエットは引いてしまします。なんといっても彼女は東西一の大人気スター、そしてベルリオーズは世間からは目向きもされない無名の作曲家でした。相手にされなくて当然なんです。
ところがベルリオーズは自分を冷たくあしらったハリエットに対する屈折した気持ちを、作品の中に注ぎ込み、とうとう「幻想交響曲」という名曲を完成させるのです。
これは一人の若い音楽家がある女性にふられて絶望して、阿片を飲んで自殺しようとするのですが、死に至るには阿片の量が不足していたために朦朧となって幻想を見るのです。この幻想の中で何度も何度も彼女が現れては、若き音楽家の心をかき乱すという、ストーリー性のある交響曲です。
若き作曲家とはもちろんベルリオーズのことです。彼はこの曲で大成功を収め、一躍クラシック音楽の世界で不動の地位を占めるのです。
その二年後、あのハリエット・スミスがパリに来て「幻想交響曲」のコンサートを聴くのです。パンフレットを通してこの曲が生まれた経緯を読み、作曲者の心をかくも虜にしたヒロインが実は自分のことだ、と知るのです。そして実際に曲を聴いて涙を流すほどに感動するのです。
そしてこれをきっかけにして、ベルリオーズとハリエットは交際するようになり、なんと二年後、二人は結婚するのです。
それはベルリオーズが彼女を劇場で見て恋に落ちてから六年後のことでした。つまり彼は失恋体験を告白した作品を発表することで、音楽家としての成功と憧れの人との結婚の両方を一度に獲得することになったのです。

人の持つ愛は自己愛にすぎない

まさにドラマチックな恋ですね。そして究極のハッピーエンドです。ところが実際に結婚生活に入ると、ベルリオーズは彼女への関心を急速に失ったいくのです。
七年後には別居します。そしてベルリオーズは、妻がいながら別の女性と同棲生活を始めるようになるのです。あんなにも狂おしいまでに愛した女性に対してどうして彼は興ざめしていくんでしょう。
実は彼が愛したハリエットは生身のハリエットではなく、シェイクスピアの劇の中に登場する女性だったからだ、と言われているのです。
小説や劇の中に登場する女性は架空の存在です。それは男性をいつもわくわくさせ、ドキドキさせる刺激的な存在です。しかしそれはあくまでも芝居の中に出てくる空想上の存在ですね。
また本当に刺激的な女性であったとしても、ずっと一緒にいると刺激に慣れてしまって新鮮味がなくなっていくものです。
つまり彼がハリエットを愛したのは、彼を気持ちよくさせる存在であったからに過ぎなかったのです。一緒にいてもつまらなくなったら、愛する理由がなくなってしますのです。
要するに彼はハリエット自身のためにハリエットを愛したのではなく、自分のために彼女を愛したのです。
彼が愛したのは自分のことだけだったのです。そしてそれは彼一人のことだけではなく、すべての男性そしてすべての女性にもいえることではないでしょうか。人の持っている愛は自己愛が変装したものであることが多いのではないでしょうか。

聖書の語る愛

しかし、聖書はこう語っています。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。

ここに言われている愛は恋愛のような感情的なものではありませんね。三つの特徴があると思うのです。

愛は意志的なもの

第一にそれは、意志的なものです。
礼儀に反することをしない、自分の利益を求めない、怒らない、というふうに書いてありました。怒りというのは感情ですね。
この感情を抑えるのは強烈な意志が必要です。
相手がどんなに期待を裏切り、損害を出し、迷惑をかけてきてもそれでも怒らないというのは強い意志による決意です。
つまり愛とは決意なのです。

愛は好意的な判断

第二に、愛は好意的な判断なのです。
人のした悪を思わず、というのはその人を善意をもって、良い面を思い出してもっと深い理由があってそういうふうにしたのだと、何事に対しても好意的に判断する態度です。ジョルジュサンドという女流作家は、ある人から彼女の親友が彼女の悪口を言っているということを聞いた時、こう答えたそうです。
「彼女は今までずっと私を裏切ったことがなかった。たった一度、今裏切られたけれども、私は彼女を恨んだりしない。私の親友なのだから。」
ジョルジュサンドは親友から受けてきた今までの数えきれない好意で彼女を判断すると言い切ったのです。
それを聞いた親友はもっと彼女のことを愛するようになるのではないでしょうか。

愛は約束

第三に、愛とは約束です。
愛は決して絶えることがない、っていうのは宣言であり、約束なのです。
どんなにしくじろうが、どんなにがっかりさせようが、どんなに裏切ろうが、それでも愛で接してもらったら、人はどんなに自分を取り戻し、またいやされ、また強められていくのではないでしょうか。
しかし、このような愛を持っている人は一人もいないのです。ただイエス・キリストにおいてのみ、見出すことができる神の愛なのです。
あなたはこのような神の愛を経験したいと思いませんか。イエス・キリストはそのような愛であなたを愛しておられるのです。
どうぞあなたも、イエス・キリストのもとに来てください。そしてイエスが愛によって成し遂げた十字架と復活のみわざを、私のためのものであった、と信じ、このイエス・イキリストをご自分の救い主として受け入れてください。心からお勧めしたいと思います。

コーヒーカップ
時計
MILANの消しゴム