新約聖書
『 兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって「能なし」と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、「ばか者」と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。 』
(マタイ5:22)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.895 2017年5月21日

「愛から出た厳しいことば」

おはようございます、高原剛一郎です!

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いま、世界で一番のお金持ちは、ビル・ゲイツという人です。マイクロソフトの創業者です。
以前、彼がその会長だったころ、日本に観光でやって来たことがありました。京都旅行をする彼のために、マイクロソフト日本法人の社長が新幹線の切符を手配したのです。
週明けに、ビル・ゲイツが清算したいというので「ああ、会社で処理しておきます」と答えると、激怒してこう言ったそうです。
「日本法人では、個人がプライベートで使ったお金を、会社の経理で処理するのか。こんなことが当たり前になったら、マイクロソフトの日本法人社員たちも、同じことをするようになる」。
いくら創業者で会長であっても、会社を私物化することは決してしなかったんですね。
彼は、自分の領域と、犯してはならない領域の区別が明確でした。これは彼が成功した理由のひとつだといわれています。
ところで、聖書は、人間が犯してはならないレッドラインを語っています。あるとき、キリストはこう語られました。

「兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」

これはすごい基準ですね。心の中で殺意を抱いただけで、裁判を受けるべきだ、言葉で相手を罵るだけでも、最高裁に訴えられるだけの悪だ、相手の人格を否定する言葉で呪うような者は、神の審判を受けるに値する大罪だ、と言うのです。
なぜ、ここまで厳しいことをキリストは言われたのでしょう。三つの理由があるように思えるのです。

基準によって罪が明らかになる

第一に、人に罪の自覚を持たせるためです。
罪の自覚は、神の基準を知って、初めて気がつくことができます。
先日、私は健康診断で血液検査をしました。RBCや尿酸値や、コレステロールなど、たくさんの数値が並んでいましたが、数値だけでは、健康なのか不健康なのかわかりません。
その数値が基準値を上回っているのか、範囲内なのか、これが問題なのです。基準値を照らしてみたとき、その人の健康状態が初めて明らかになります。基準がなければ、どんなことも判断することはできないんですね。
例えば、日本全国には、お寺が75924あるそうです。これは多いでしょうか、それとも少ないでしょうか。そこで、日本全国どこにでもあるものの代表、コンビニの店舗数を基準にして考えてみましょう。
コンビニは日本全体で4万軒あります。それに対して、お寺は約二倍あるのです。多すぎる、ということになるんですね。というのは、コンビニは今の二倍になると、過当競争で三割倒れる、といわれているからです。基準がわかると、状態がわかってくるんですね。
私が通っている教会では、月に一回、編み物の教室が開かれています。そこに集う女性達が、こんなことを言っていました。
「九割以上完成していても、一箇所間違いを見つけたら、全部ほどいて、一からやり直します」と。
何でそんな面倒なことをするのですか、とたずねると、初めに完全な見本を見ているので、失敗を放置することが我慢ならなくなる、とおっしゃるのです。
さて、人間は善なるものなのでしょうか、それとも罪人なのでしょうか。それは、人を造った神の基準に照らして、初めて判明することなのです。
神の基準は、殺人を実際に犯していなくても、言葉で呪っただけで、十分、人を殺めるだけの破壊行為だ、いや、心の中における殺意や憎しみも神の前には罪だ、というのです。
この基準の前で、私は全く大丈夫です、と言える人は、ひとりもいないと思います。すべての人が、神のきよさの前には罪人なのです。

厳しい基準は愛のしるし

第二に、こんなにも厳しい基準である理由は、神の愛の表れであるからです。
心の中でも、言葉であっても、人は痛めつけられるべきではないという、神の人間評価の高さが、この基準となっているのです。
去年なくなった大橋巨泉さんが小学生だったころ、ひとつ、忘れられない思い出があるそうです。
彼の一家は都会から千葉の田舎に引っ越して、空襲を免れるのです。しかし、お金持ちで、生意気で、成績がよかった巨泉さんには、強烈ないじめが待っていました。
あるときは落とし穴に落とされ、またあるときは川に放り込まれたのです。もうこれ以上のいじめが続いたらダメだ、と思ったとき、大きな支えになってくれたのが、彼のお母さんでした。
ある日、いじめによって巨泉少年は脚を骨折します。お母さんは、どこまでもエスカレートするいじめっ子の家に乗り込んで行って、その親にこう言ったそうです。
「いじめでうちの子に、もしもの事があったら、お宅の子を殺して、私も死にます」。
言われた相手は震え上がって、こうして、いじめは止まったのです。お母さんはいじめに対して、烈火のごとく怒りました。その怒りは、いじめの被害を受けているわが子への愛から出たものなのです。
神様は、いじめや悪口や殺意に対して地獄のさばきを語りましたが、その強烈な基準は、罪の被害者である一人ひとりの人間への愛でもあるのです。

厳しさに根拠づけられた確かさ

第三に、神の赦しの確かさを示すためなのです。
1961年、フォルクスワーゲン・ビートルの広告は、発表から40年後に行われた、世界で最も偉大な広告に関する世論調査で、世界一に選ばれました。
一体、どんな広告だったのでしょう。フォルクスワーゲン・ビートルが一台、白黒写真で載っているのです。
そしてその下に、ドキッとする言葉が書いてあります。「欠陥車」と。
そして下に、説明文が続きます。「この写真のビートルは、社内の小さな小物入れの蓋に、僅かな汚れがあったために、品質検査によって欠陥車となった。汚れを見つけて、このビートルを不合格にしたのは、ドイツのヴォルクスブルク工場で働く、3389人の検査係の一人である」。
この広告が訴えているのは次のことです。こんなに小さな、僅かな汚れですらも決して見逃すことがない、フォルクスワーゲンの検査が合格を出したときには、絶対的に信頼できますよ。
基準が厳しければ厳しいほど、その厳しい基準を設けた会社の合格は、まさに信用できるものなのですよ、というメッセージなのです。
キリストの聖書メッセージの基準は、言葉や心の中にまで及ぶ峻厳なるものです。しかし、そんなにも僅かな罪ですら決して見逃すことがない神が赦しを宣言されたならば、その赦しはどんなに完璧なものだといえるでしょう。
この、完璧な罪の赦しを人に与えるために、唯一罪のない完璧な方、イエス・キリストが十字架にかかって死んで下さったのです。
それは、あなたの全ての罪を身代わりに背負って、刑罰を引き受けるためでした。キリストは、あなたの赦しをすでに勝ち取って下さった方なです。
そして、三日目の復活を通して、神の赦しの実効性を明らかにされたのです。
どうぞ、あなたを愛して、あなたに罪の赦しを差し出すイエス・キリストを、信じ、受け入れて下さい。心からお勧めしたいと思います。

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