新約聖書
『 神は、キリストにあって、この世を和解させ、違反行為のせめを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。 』
(2コリ5:19)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.896 2017年5月28日

「最高のドライバー イエスを迎えて」

おはようございます、那須清志です!

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今日も、聖書に示されたグッドニュースをご一緒に考えていきましょう。
今回は身近な乗り物で、興味を示している方も多い車を例にとります。
まず最初に考えるのは、神と人間との関係です。世の中にはたくさんの種類の車がありますが、すべて人間が設計し、組み立てたものです。
完成した車に運転手が乗り込んで、その役割を果たします。その車をどこで使うか、どのように使うかは運転手次第です。
車の運転を見ると、その人の性格も分かるとよく言われますね。車は同じでも、運転する人によって車の動き方はずいぶん違ってくるのです。遅い車を追い越さないと気が済まない人。後ろが詰まっていても気にしない人。自然に道を譲ってあげる人などなど。
運転手の動きに車は呼応します。根っからの車好きな人にとっては、今はやりの自動運転では物足りなさを感じることでしょう。
 では、人間とはどんなものでしょうか。それは、車体のようなからだを持ち、人格という運転手がいて、この世界の人生という道を進んでいるようなものだと思います。
車体と運転手という車の場合ほど明確な区分はありません。人間のからだと心は深く結びついていて、お互いに大きな影響を与え合っています。
身体が病むと心も病み、その反対もあります。身体を酷使していると、やる気はあっても体がついてこなくなるということもありますね。

霊の問題は神に診てもらう

車の調子が悪い時は、メーカーに持ち込んで診てもらいます。
原因が乱暴な運転や、ひどい取り扱いの場合は、ドライバーが反省しないと、また悪くなります。
 メーカーという言葉は英語で「製造者、製造元」という意味ですが、頭文字を大文字のMにすると、造物主、つまりすべてのものを造られた創造主という意味になります。
人間がからだや心を病んだときは、それぞれの専門の医者に診てもらいます。それはとても助けになりますが、最終的な、究極的な問題の解決は人間を造られた創造主のもとに立ち返ることだ、と聖書は告げます。
特に、神と触れ合う部分である霊の問題は、神のもと以外に解決はありません。人間はこの霊、魂、からだの調子如何によって、地上の走りが良くも悪くもなります。
快適な走りをもたらすには、私たちを造られた創造主との関係がとても重要だと語られています。

神の基準から大きく外れている

2番目に考えたいのは、創造主から見た人間の状態です。
車の運転をする人は、交通法規を守る義務があります。一つ一つのルールは私たちを縛るためにあるのではなく、お互いに安全で秩序ある車社会を作るために必要なものです。
そのことを皆認めますが、いざ自分がルール違反を宣告されると心中穏やかではありません。「なんで自分だけ」とか、「あの人もしている」とか、指摘した人が不公平かのように思ってしまうものです。
 かなり前のことになりますが、私が初めて青切符を切られたのは、一旦停止違反でした。
停まったつもりでしたので、私が、「えーっ、罰金とられるんですか?」とつぶやくと、「いいえ、罰金ではありません」と言うのです。
見逃してくれるのかなと思いきや、「罰金ではなく、反則金です」と言うのです。罰金は反則金とは違い、重大な違反に課せられる刑事処分だそうです。
罰金刑は前科扱いになる重い処分で、禁固刑または懲役刑に似たものだと、反則金は比較的軽度の違反に課せられるもので、期日中に支払えば、すべて終了になるとのこと。
その説明を聞いても、なんの慰めにもなりませんでした。どっちにしてもお金を払わないといけないのか、とがっかりしました。
 人間の場合はどうでしょう。車の運転に関する規則があるように、人間として生きていく上でも規則がると聖書は語ります。
人間が作った法律も大切ですし必要ですが、神が聖書の中で示された律法はさらに大切です。
法律が人間の権利を守り、自由を与えるために作られているのと同様、いやそれ以上に、人間の魂を守る重要なものとして、神は律法を人間に示されました。
しかし、人間はその基準から大きく外れてしまいました。神を愛し、隣人を愛するという基本的な神の律法に違反した結果、人間は罪に陥った状態になったと聖書は表現します。
 さらに、人間の法律の場合は、人間の行なった行為をさばきますが、神は私たちの心をおさばきになります。人を憎しむとき、それは心の中で殺人を犯しているようなものだというのです。
そういう運転をし続けている人間は、いずれ規則違反で摘発されるでしょう。またそのゴールは、神の用意された天国ではなく、滅びに至ってしまうと心配されているのです。

あなたのためにイエスが来られた

最後に考えたいのは、神が備えたゆるしの方法についてです。次のような聖書の言葉があります。

神は、キリストにあって、この世を和解させ、違反行為のせめを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。

 私たちが交通ルールを違反した場合、それが重大なものでないときは、反則金を払うことで、裁判による審判を受けなくても済むことになります。
反則金は違反の程度によって金額が定められています。
神の前における人間はどうでしょうか。人の裁判でも、これまでの運転歴や反省次第で刑罰が変わることがあります。まして神は完全に公正、公平な方で、私たちを正しくさばかれます。
しかし、さばきを免れるような完全な人間は一人もいないと言います。自分の罪を覆えるほどの善行を人間は行うことができないのです。
そこで神は、人間が思いもよらなかった方法を示してくださいました。人間が犯した罪を、身代わりに背負って、十字架の上で、身代わりにさばかれる、というものです。
これは、ときどき人間の世界に起こる、違反をした人の代わりに警察に出頭して罪を被る身代わり出頭とは全く次元の違うものです。
神は姑息な手段で、罪をうやむやにしたり、他人に擦り付けるような方ではありません。神の基準で正しく計られた罪の刑罰を、残るところなく処分できる方法があるということを、神は何前年も前から聖書に記してこられました。そのカギは、神が人としてこの地上に来られたイエス・キリストです。
 2000年前、イエスは十字架の上で、神の基準ではかられた人間の罪のすべてを担って十字架の上で裁かれてくださったのです。
そして、この方法が間違いないものであることを世界の人々に知らせるために、3日後にイエスは死者の中からよみがえりました。

イエスをあなたの車に乗せる

この罪のゆるしは、イエスをあなたの救い主として信じ受け入れることによって、自分のものとすることができます。
イエスを主として信じる、というのは、あなたという車の中に、イエスに乗っていただくようなものです。
助手席から良い運転のアドバイスを受けます。行くべき道を教えてもらいます。
イエスにハンドルを渡して運転していただくようなものだ、と考える人もいます。別の見方では、ゴーカートの2つハンドルがあるような車を、イエスとともに運転する、といった感じでしょうか。
また、助手席にもブレーキが付いている教習所の車であれば、いざ、というときイエスがブレーキを踏んでくれます。いずれにしても、イエスを信頼することで私たちは最高のドライバーを得て、神の国という最高の目的地へ向かうことができるのです。
 先日、80歳のおばあさんが、私はミッションの軽トラに乗っているけど、これしか乗れない、と言っているのを聞いて驚きました。
今は、ミッションの車に乗れる人は少ないと思います。ミッションの意味が分からない人も多いでしょう。その方が、次の更新で免許を返納するかどうか迷っている、というのです。昔のように運転できなくなってきたんですね。
確かに、私たちはいずれは自分のからだを思い通りにコントロールできなくなります。神から離れたままでは、からだも心も朽ちていってしまうのです。
しかし、イエスを個人的な主として受け入れた者には平安があります。イエスが完全なドライバーとなってくださり、またある時は完全な道となってくださって、私たちを永遠の世界にまでドライブしてくださいます。
あなたも是非、心のドアを開いて、イエスを救い主として迎え入れてください。心からお祈りいたします。

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