新約聖書
『 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。 』
(1ペテロ1:3)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.920 2017年11月12日

「罪人を義とする神のエビデンス」

おはようございます、高原剛一郎です!

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さて、自然科学のジャンルでは2大学術論文雑誌があります。イギリスの『ネイチャー』とアメリカの『サイエンス』です。
両方とも歴史が古く、掲載された論文がノーベル賞を受賞することもしばしばです。そして、特に『ネイチャー』は掲載のハードルが非常に高いということで有名なんです。
実は科学雑誌に掲載される論文は投稿後すぐに載るのではなく、まず査読されるのです。査読というのは、その研究論文が画期的なものなのか、再現性があるのかをチェックすることなんです。他の科学雑誌もこの査読をクリアした論文だけを掲載しますが、『ネイチャー』の場合は特に基準が厳しく、実際に掲載されるのは投稿論文10本中、1本かそれ以下と言われているのです。
採用されるかどうかは根拠の真実性にかかっているのです。十分な根拠がない物や実証データの裏付けが曖昧であると採用されないんですねえ。
ところで、聖書は聖なる神様が罪だらけの人間を赦し、受け入れ、神の子とするために揺るぎない根拠を示しています。聖書にこう書いてあるからです。

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。

この聖書の箇所には神が罪人を赦す二つの根拠を示しています。

キリストが十字架による罪の償いをして下さった

第一に、全く罪のないイエス・キリストが十字架の上で死者となって罪に対する神の怒りをすべて飲み干してくださったということです。
私は今年の夏、奈良県の吉野にある山奥に湯治に行きました。途中、大きなダムの上を橋で渡るのです。その時、何か怖さを感じました。それはダムという建造物の巨大さに圧倒されたからです。
人は自分よりも遥かに大きい物の前に立つと、それがいのちのない人工物であったとしても恐れのようなものを感じるのではないでしょうか。それは自分の小ささを痛感するからです。
実は人間は、人間を圧倒する大きなものの前に立っています。それは人間の罪に対する神の怒りです。
神は正義の神です。罪を徹底的に憎む神です。その神の怒りは人の想像を絶するものです。
こう考えてみてくさい。幅1万km、高さ1万kmの超巨大からたった100mしか離れていない所にあなたが立っていたとします。すると突然、そのダムが決壊し恐るべき水があなたに向かって猛烈なスピードで迫ってきます。どんなに早く逃げても逃げ切ることはできません。
しかし、まさにあなたをその大水が襲いかかろうとした時、あなたの目の前の地面がパックリ割れてその大水を飲み込んでしまったらどうでしょう。あなたは何の被害も受けません。
キリストがしてくださったことは実にこういうことなのです。全く罪のないキリストは十字架にかかり、あなたの罪に対する神の怒りのうねりをたった一人で全て飲み干してくださったのです。
最後の一滴まで飲み干し、そして十字架の上で宣言してくださったんです。「完了した。」「あなたの罪の償いはここに完了した。」これが罪許される第一の根拠なのです。

復活という償いの証拠

第二に、キリストは死者の中からよみがえることで、神はキリストによる償いを受け取り満足されたことを証しされたからです。
キリストの犠牲によって神の義の欲求が完全になだめられたことを示すために、神は受け入れの証拠としてキリストを死者の中からよみがえらせなさったのです。
人間の契約関係においても、何か大きな取引が成立した時には保証のための証券や証書を発行しますね。例えば不動産で何千万、何億円の取引が成立した時には、支払い現金と引き換えに印紙の貼った領収書が発行されます。これは確かにその代金を受け取りましたという証しとして発行されるものです。
神はイエス・キリストのいのちという計り知れない代価を確かに受け取ったということの証拠として、証しとして、復活という奇跡を明らかにされたのです。この復活をもってキリストの死は、ただの死ではなく、神に受け入れられた贖いのための死であるということが立証されたのです。
そして、この二つの根拠のゆえに、全てキリストを救い主と信じる人には新しいいのち、天国に入るいのちを与えてくださったというのです。そして、これが生ける望みと言われるのなのです。

ケネディが述べたクリスチャンの死生観

J.ケネディというクリスチャンは自分の死について前もってこう語っています。
「私もいつか死ぬ日がやってきて棺に入れられ、墓地の中に下ろされることでしょう。 人々はやって来てお悔やみを言い、皆、涙するかも知れません。でも、前もって言っておきます。私のお葬式の時にはハレルヤコーラスを歌ってください。そして、地面を見つめて悔やむのではなく、天を見上げて神を賛美してください。 というのは、私は土の中になんかはいないからです。土の中にいるのは私の脱け殻です。私の霊魂は天国にいます。そして、今まで生きていたどんな時よりも生き生きとして、可哀想な皆さんを上から見ています。死に行く世の中にいる皆さんは使命を果たし終えるまで、生ける国にいる私のところに来ることはできません。私はそこで誰も経験したことのない健康、活力、喜びに溢れているのです。だから、私の葬式にはハレルヤコーラスが一番ピッタリなのです。」と。

キルディが述べたクリスチャンの死生観

また、ジョン・ゴードン・キルディというクリスチャンは不治の病を宣告された後、次のようなエッセイを書き残しています。
「街の中の病院を出て、私は8キロほど離れた家に歩いて帰ることにした。途中、私が愛した山や川を眺めた。石に腰掛けて夕闇が迫るのを見た。やがて、星が瞬くのを見ながら私は語りかけた。『川よ、もしお前が干ばつで干上がって無くなってしまうようなことがあっても、私は生き続けている。山よ、もし地殻変動でお前が大地にめり込んで無くなったとしても、私は生き続けている。星よ、もしお前が惑星衝突やブラックホールに吸い込まれて消滅したとしても、私は生き続けている。この天地が滅んでも、私は神の御手の中で永遠に存在し続けているのだ。』」
これがクリスチャンの死生観です。

クリスチャンの生ける望み

この夢のような不滅のいのちを夢ではなく現実であることを立証するためにキリストは死を打ち破って復活されたのです。
しかも、このキリストはクリスチャンたちを迎えるために、また天から空中まで下って来られるのです。
その時がやって来たら全てのクリスチャンは一瞬にしてこの地上からいなくなるのです。それはいつであるのか誰も知りません。しかし、いつでも起こり得ることなのです。
これがクリスチャンたちの生ける望みです。どうぞ、あなたもイエス・キリストを信じてこの生ける望みをいただいてください。心からお勧めします。

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